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「ALIA」 (アリア)

ヴィッ トーリオ・カターニ

 イタリアの文化水準が凋落傾 向にあるこの時代に、幻想文学に関わる書物が出現したことは真に素晴らしいというべきである。 一年間の準備の後、トリノ市のC.S. Coop. Studi Libreria Editriceは「ALIA」というアンソロジーをとうとう出版した。三つの章(イタリア、日本、英語圏)に分かれた分厚い396 ページの本である。正確にいえば「ALIA」は(一回限りの本の出版というよりも、進行中の)企画であり、一年ごとに(あるいは六ヵ月ごとか? まだはっき りと決まっていないが)アンソロジーを一冊出版する予定である。いろいろな国々の短編の他、それぞれの章の前にその特徴を紹介する序文が掲載されることに もなる。 なにもまして「ALIA」はSF作品のみならず、“幻想文学”のアンソロジーである。しかし、「幻想」とは何も のであろうか。せ んじ詰めれば、「幻想」と いう言葉によって“この世界”にある全てのものを明るみに出そうとすることではないか?  イタリアの場合、残念ながら、そのようなアンソロジーはなかなか珍しいものである。 無論のこと、今回選択された短編は、全てハイレベルのもので、その中の作品は本物の“幻想文学の宝石”だと言っ ても過言ではない であろう。とはいえ、これ は決して驚くべきことではない。なぜならこの企画の立案者のなかには読者に名の良く知られた企画者たちが大勢いるからである。まず、第1回オメラース賞、第2回オメラース賞(1)を 受賞したシルヴィア・トレヴェース氏(Silvia Treves)並びにマッシモ・チーティ氏(Massimo Citi)であり[]  

                                                                                              「Delos」誌 85号より

1)     Premio Omelas。民法に関する問題をテーマとした作品の賞であり、Amnesty internationalの支援もいただいている。






「イ タリア幻想文学の一筋の煙の中に」
ヴィッ トーリオ・カターニ


 「ALIA」は、イタリア製ファンタジーに属する小説のアンソロジーをも編んだ。一見したところ、当然なことのようだが、むしろ先見的なものと言っても よい。 しかしながら、ほんの数年前まで、わが国の(いわゆる)文化的体制の風土においては、この手の企画は、当惑を誘うか無視される類のものであっただろう。こ の「ほんの数年前」というのは、20年以内に収まることであり、わが国の国民文学の歴史の中で測るとすると、瞬きする間もないくらいなのだ。

ほ んの少し前まで、すなわち、イタリアでは「幻想小説」は、好意的に規格外とみなされた三人の作家の存在を意味していた。その文学的評価については、誰も 悪くは言えなかったのだが、ブッザーティ、ランドルフィ、カルヴィーノである。あとは事実上、存在していないも同然だった。発祥時から、SF小説が語られ ることは、さらに少なかった。この種のものは、1950年代初頭にアメリカからイタリアに紹介され、我々の市場では、売店で売られる大雑把な翻訳の廉価版 双書に追いやられていた。とにかくそれらのモチーフは、各々の健全な論理の向こう側で考慮されるようになっていた。

1984 年、リナシタ社が、充実した二巻を出版した。

「イ タリア夜想曲-19世紀幻想小説」エンリーコ・ギデッティ編

「イ タリア夜想曲-20世紀幻想小説」ギデッティ、レオナルド・ラッタルーロ編

こ こで取り上げられている作家は、タルケッティ、ボーイト、イムブリアーニ、ギスランツォーニ、ヴェルガ、セラオ、デ・ロベルト、フォガッツァロ、ディ・ ジャコモ、カプアーナ、ズヴェーヴォ、ソフィッチ、パピーニ、トッツィ、ボンテムペッリ、マリネッリ、ピランデッロ、モロヴィッチ、サヴィニオ、モラヴィ ア、バッケッリ、パラッツェスキ、トマージ・ディ・ランペドゥーサ、レーヴィ、ソルダーティ、その他である。既に1980年には「オスカー」モンダドリが ギルベルト・フィンツィ編の蓬髪主義(スカッピリャトゥーラ)のアンソロジー「黒の小説集」を出版している。収録されているのは、プラーガ、ロヴァーニ、 アッリーギ、ドッシ、ファルデッラなど。

  リナシタ社の編んだアンソロジーは、出版界である種の反響を呼んだ。多くの書評家が驚きを隠さず、彼らの幾人かは好意的な言を述べたが、基本的には途方に く れていた。これらの作品から何を開示しようとしたのだろうか?陽の光りを浴びたイタリアでも、暗い「幻想」小説の伝統があったことを?しかしながら、確か にこれらは統計上且つ歴史上、質の低い、稀にみるような、実体の一例にすぎなかった。要するに、ただ、有名な作家は真面目にではなく暇潰しとして書いたも のだけだった。しかしながら、幻想的なものが我々の文化の水平線に存在していたと強調していた人物もいた…& hellip;そこで、その研 究が進み、同時にそれに関わる 出版物の数が増えてきたのだ。

 そ れから何年か経る必要があったが、SF小説の方面においても、何か似たようなことが起こったのだった。2001年に「北イタリア」という出版社から、ジャ ンフランコ・デ・トゥリッス、クラウディオ・ガッロ編のアンソロジー「サヴォイアの飛行船 イタリアのSF 1891-1952」が出版された。そこで定 期刊行物の密度の濃いネットワークの存在が明らかにされた。そして、完全に忘れ去られていたことのだが、そのページに、サルガリ、モッタ、ヤンボー(エン リーコ・ノヴェッリ)はともかくとして、ボンテムペッリ、カプアーナ、チコーニャ、ゴッツァノ、ロッソ・ディ・サン・セコンド、ウゴリーニとその他のあま り有名でないか全く忘れられていた作家による「プロトSF」として受け入れられる作品を見出すこととなった。物語文学は実際には、味わいと構造の点からは 未だ19世紀風ではあるが、しばしば幻想文学に迂回し、読みやすく楽しいものとなった。

我 々の身に降りかかったのは、実はこういうことなのだ。だいたい30年代から50年代かけて、ジェネレーション・ギャップが存在し、文化的なロボトミー手 術が施されるという一種の断層が横たわっていたのだ。(おそらく第二次大戦前の体制と一連の戦争の産物であろう)。イタリアが廃墟から立ち直るやいなや、 傷を塗りこめることが始められたが、もはや裂け目は取り返しのつかないもの-容易に癒せるものではなくなっていた。「幻想小説」に関しては、それまでの足 跡は見失われ、SF小説に至っては、すべてが忘れ去られた。アメリカから到来したSF小説が物語るのは、もはや我々の言葉とは完全に異なるものだった。 SF小説は新奇さで意表をつくものであり、そればかりか、ほとんど不可解ですらあった。それは、我々には未知の出版界の現象で、つまり「大衆小説」とし て、迅速な組織化が進み、しっかりと特徴づけられていた。我々にはエコーが届くことすらない、テーマ上の極めて今日的な科学の詳細であり、空想力豊かでは あるが、もっともらしいテクノ・イノベーションから出発した社会的変貌を推定することが著しく可能だった。イタリア人にとっては絶対的に「エイリアン」で ある文化的フォームへの言及であり、SF的ではないが、劇的にリアルであるという感覚において……。

し かしながら、このようにわが国の幻想小説とSF小説の作家たちが徐々に活動を開始したという状況だったのだ。

結 局、初めのうちは、イタリアのSFは、大西洋の向こうの「大作家」たちの巧妙な模倣をするしかなかった。この時代には、アイザック・アシモフ、アー サー・C・クラーク(イギリス人ではあるが)、マレイ・ラインスター、ロバート・A・ハインライン、ジャック・ウィリアムソン、アルフレッド・E・ヴァ ン・ヴォート、フランク・ラッセル、シオドア・スタージョン、ポール・アンダースン、クリフォード・D・シマックその他の、新しいファンにとっては「魔術 的」な名前が挙げられる。

イ タリアSF小説の歴史において、最初の瞬間から、現在に至るまでけして解決されることのない対立が存在していた。大西洋の彼方の大作家たちの忠実な模倣 は、困難で不毛な光景を呈した。科学的論拠-けして特別な共感を得たことはない-の背景に追いやられたある種の「イタリア製」SFは、代わりに、その動機 となった個々人の環境と心理を泡立たせたることにより、唯一のもっともらしい選択肢となったのだ。その一方で、我々イタリア人は人文的で倫理的・社会的・ 哲学的な波及効果に対して熱烈な文化に浸ったことはなかったのだろうか?

こ の処置は根幹的な「収穫」であり、多くの試みがあり、その中には極めて威厳があり、独創的なものがあったにもかかわらず、出版業界では成功したためしが なかった。今日の状況はどうであろう?「公式」の文化の側が未だに敵意をひきずっていることを、否定することは出来ない。ジャンル内の技術的な問題点の幾 つかは、新奇さによって超えられただけで、実はまだ解決されていないのだ。作家たちは、ジャンルとしての小説の形式的で良質な主導権を握った。しかし、む しろ雑種の文化に介入され、雑種ジャンルが付け加わったのでもあった-幻想文学とファンタ・テクノロジーは、(とりわけ)映画、コマーシャルの恩寵によ り、遂にイタリア人の空想の中に入ってきた。書店には、非現実的な味付けを加えた、幻想文学やSF以外のレッテル付けはなされない本であふれかえっ た……。

そ れはすなわち、「Fata Morgana」(1)、 そして「 ALIA」のような出版物の存在を可能にしたのだった。

ALIA」第一巻に収められた作家たちの幻想の中の作品において、おそらく私が上記で説明した苦悩の道 程の要素が見られることだろう。

                                                                                                          『ALIA2004』の前書きより

                                                                     翻訳:今 村夏

1)    エンタテインメン ト文 学・純文学アンソロジーシリーズである。現在(2007年初頭)、全10巻であり、もともとイタリア人作家向けのみのアンソロジーであったのに、2003 年から江國香織氏など日本人と他の国々の作家もご参加。

 http://www.arpnet.it/cs/fm





 

「日本幻想文学」

マッシモ・スマレ


日 本では、幻想文学があらゆるジャンルにおいて新しい特徴的なパターンを作るほど相当に開発されたというのに、その作品はイタリア語に訳されておら ず、こちらでは全然知られていないのである。日本のホラー、ファンタジー、童話、SFな どは、世界中の最も豊富な、貴重な文学の一つであるので正にそういう翻訳不足が真に残念なことと思わないわけにはいかない。 既にクラシックと呼ばれるジャンルの他、エロ・グロ系のようなユニークな特色を持っている文学も生まれており、これらによって作家は人間の精神世界の最も 底知れない深遠をも360度にわたって観察している。その上、近頃の京極夏彦氏が作り出した妖怪ミステリ系の場合、シャーロック・ホームズが使用する推 論が、妖怪ハンター並びに妖怪祓いのモチーフと一体となり、その妖怪が人間の中にある暗闇から生み出されたものであるということがついに明瞭にされるので ある。さらに、鈴木光司氏(1957年~)の「リング」(1991年)のようなホラー作品を忘れることが出来ないし、瀬名秀明氏(1968年~)の「パラ サイト・イヴ」(1995年)の科学的なホラー系小説とは[]リ ストにはキリがない。上記に記述した作家たちは若いジェネレーションのみである![]

 

                                                    『ALIA2004』 の前書きより





「言魂」

井 上雅彦

 イタリアの古都トリノから、できあがったばかりの『ALIA2005』が送られてきた昨年の秋、私は、生まれてはじめて珈琲の濃厚な味を 体験した時のように、幸福な眩暈と覚醒の興奮とを覚えました。
 私たち日本人の空想力から生まれ、筆の先からほとばしり出た、幻想と怪奇と驚異の物語が、青い大海を越えて、美しい音楽のようなイタリアの言葉に翻訳さ れている。そして、ヨーロッパの読書家の空想力と響き合い、共鳴し、さらなる未来の作家の夢の源泉となりうるかもしれない。
 その現実と可能性に、感謝を捧げ、心地よい酩酊を覚えながらも、日本の幻想小説が、イタリアをはじめヨーロッパでどのように受け入れられるのか、いや、 そもそも、日本の幻想小説の特徴・個性はどのあたりにあるのだろうか・・・・・・などと、さまざまな命題を真剣に考える機会ともなりました。

 私自身は怪奇幻想小説を日本の文芸誌に発表しはじめて25年目を迎えようとしています。また、1997年から《異形コレクション》という幻想短篇アンソ ロジーの企画・監修を務めています(《異形コレクション》は、毎回、20人前後の現代日本の作家たちに、毎回、ひとつのモチーフを投げかけて、短篇を書き 下ろしてもらうという方式の競作集で、現在は35巻目の準備にとりかかっています。)。すなわち、実作者として、また編集者として、日本の幻想小説に関 わって参りましたが、『
ALIA2005』への参加は、私自身、日本の幻想小説について、さらに深く考える機 会となったのです。
 現代日本のファンタスティックな小説分野は、実に多彩です。

 怪奇小説。SF。幻想ミステリ。
架空世界。時代伝奇小説。言語実験などの、前衛的な実験小説。寓話。メタフィクション
・・・・・・。こうした作品の多様さは、本書も含めた過去の『ALIA』3冊に掲載された日本の作品群からも、その特徴が伺えるのではないでしょう か。
 ジャンルの多様化にはとどまりません。たとえば、SFと一口に言っても、最新の自然科学――遺伝子工学、量子物理学、脳をめぐる諸科学、宇宙論など―― を対象とするハードSFもあれば、未来の宇宙世界に展開する冒険活劇、過去のもうひとつの歴史を描く歴史改変小説
・・・・・・など実に多様化しています。
 さらには、ジャンル小説――怪奇小説、SF、ミステリなどの小説様式――のそれぞれの要素が、相互に絡み合った作品も多く発表されています。(たとえ ば、怪奇現象が日常化した世界の本格ミステリ、未来世界を描いたゴシック小説、異星生物が登場する歴史小説、言語実験を含んだ怪談小説など
・・・・・・具体例を挙げれば枚挙に暇がありません)。
 この多彩なる幻想、豊かなる多様化こそが、現代日本の幻想小説の特徴のひとつめとして、挙げることができると思います。

 しかし――考えてみれば、日本人の幻想の多様さ、空想の豊かさは、現代にはじまったことではありません。

 日本人は、太古の時代から、空想とともに生きてきました。

 そして、その空想には、つねに言葉が寄り添っておりました。

「はじめに言葉ありき」とは旧訳聖書の言葉ですが、日本にも「言魂(ことだま)」という概念があります。すなわち、言葉そのものに「魂」が宿っているとい う考え方です。そして、その言葉たちは、多くの「魂」の物語を産み出しました。

 太古の物語は「神話」です。日本は、大陸から少しだけ離れた小さな島国ですが、そこには日本独自の神話――天地創造や、神々の戦い、神と人間との繋がり ――などが語り継がれています。それは、800万を超える神々が、それぞれ独自の空想の物語が展開する壮大な物語で、ギリシャ・ローマ神話とも比肩しうる 壮大な「ファンタジー」としても読むことができますが、こうした古代の神話は、現代の私たちにも大いなる影響を与えています。アニミズム的な発想や、生活 に直結する民間信仰、思考法、感性などにおいてです。

 この多神教的世界は、日本の幻想小説の多様化にも影響していたのかもしれません。

 また日本人の「言魂(ことだま)」が編み出した世界は、実に奇抜な論理、奇想に溢れています。「神話」のみならず「民話」「説話」にも、その一端は顕著 に顕れています。

 たとえば「かぐや姫」の物語。竹の採取を生業とする老夫婦が、輝く竹から生まれた女の子を育てる物語ですが、成長した美女は、月の人間だった
・・・・・・という美しき異星人の物語です。
 また「浦島太郎」の物語。海亀の命を助けた漁師の青年が、招かれた海底世界で、姫君に逢っていた僅かな日々が、地上では何十年も経過していたという、あ たかもアインシュタインの相対性理論を先取りしていたような物語でした。

 これなどはほんの一例にすぎませんが、このような近代以前の民話のなかにさえ、「宇宙」「時間」というSFモチーフの萌芽が顕れ、幻想のヴィジョンと同 時に、不可思議な論理と戯れる物語が創造されていきました。現代幻想作品の奇想、SF性の源泉ともいえるでしょう。

 《多様性》《奇想》と同様、日本の幻想作品の重要な特徴とも思えるのが、《もののあわれ》の情感でしょう。わかりやすくいえば、失われていくものへの哀 切さを伴った情感であり、同時に、その風情の美しさを表現する美学的概念でもあります。儚いもの、壊れていくもの、やがて失われるであろう存在を想う時、 心の中に沁みていく感慨。

 日本人の描く幽霊の物語が、恐怖の対象であるばかりではなく、優しさや悲しさや美しさなどの感動を伝える場合が多いのは、こうした考え方(あるいは感 性)が原因と思われます。

 インドの北方を起源とし、中国を通じて日本に伝来した仏教は「すべての存在は滅ぶ」という概念をもたらしました。しかし――すべての存在が《あわれ》な 滅ぶべきもの、という考え方は、すべての存在に霊や魂や神が宿るという日本神話的な考え方にも変換できます。二つの考え方は、紙の裏表の関係であり、日本 人のなかでは、一体であったとも思われるのです。

 ここで思い出すのが日本語の「物語」の語源です。日本では「ストーリィ」や「フィクション」を意味する最も一般的な単語は「物語 モノガタリ」といいま す。この単語の「カタリ」とは相手に話すことの意味です。そして、「モノ」とは、現代では、物理的な対象を意味する一般的な単語なのですが、語源的には 「霊」を意味します。すなわち、「物語」とは、日本人にとって、本来、「霊」をもてなし、鎮魂するための儀式であり、「霊」を語ることで「霊」を敬うとい う意味でもありました。
・・・・・・ここに古来の日本の幻想小説の起源のひとつを見ることができます。
「モノガタリ」という《もてなし》。万物に宿る「霊」や「神」とともに、人間もまた、物語の愉しみを味わう娯楽。古代から日本人は、幻想の物語を《娯楽》 として愉しんできました。「神」に捧げる「神楽(カグラ)」という仮面劇をはじめ、「能(ノウ)」、「狂言(キョウゲン)」そして「落語(ラクゴ)」にい たるまで、《奇想》に溢れた幻想の物語を、日本の大衆はエンターテインメントとして味わってきました。ここには《恐怖》や《驚異》とともに、《笑い》の感 性も盛り込まれています。《笑い》もまた、日本の幻想小説の重要な要素のひとつでもあります。

 エンターテインメント性。この特性は、現代の幻想小説にも顕著です。真に幻想文学を愛する読書家は大衆娯楽的な作品も愛し、より高尚な作品においても、 娯楽的な部分を内包する作品が多いことも、日本の幻想小説のひとつの特性でもあります。

 《奇想》に満ち、《もののあわれ》の情感を湛え、《美》と《恐怖》と同時に《笑い》も提供し、それをさらに《娯楽》とさえする《多様性》
・・・・・・
 本書や、過去2冊の『ALIA』で、日本人作家の作品をお読みいただき、その「言魂(ことだま)」に触れていただければ、ご理解いただけるものと信じて おります。いや、なによりも、日本人の作品が、皆さんをおもてなして、愉しませることができれば、うれしいのですが。

 なにしろ
・・・・・・これだけたくさんの現代日本の幻想短篇小説が、日本を離れ、「海の向こう」で 一挙に紹介されるという機会は、《ALIAシリーズ》創刊以前には例がありません。これは、本当に快挙だと思います。
 近代の日本人作家は、その哲学や思想を積極的に欧米の著作に求めてきました。幻想を愛する作家においてもです。江戸川乱歩、岡本綺堂など、推理小説や怪 奇小説の開拓者たちは、英米の作品の翻訳から、ジャンル小説の精髄を学びました。ベルヌの『月世界旅行』などはフランスでの発売後十年ほどで日本語に翻訳 されています。日本人は海外の文化を吸収し、海外の空想力を愉しむのが好きだったのです。考えてみれば、太古から、海に囲まれた日本人は、海外からの漂流 者や旅人のことを「マレビト」なる神のひとりとして、《もてなす》習慣がありました。基本的に文化交流を求めていたのです。現代日本の多様・多彩な幻想小 説の隆盛も、文化的な「マレビト」たちの恩寵と無縁ではありえません。

 今度は、私たち日本人の「言魂(ことだま)」が、美しいイタリア語の響きに乗って、壮大なオペラやカンタータのアリアのように、世界中の皆さんの空想力 の中に共鳴し、さらなる未来の幻想を産み出すことを、願ってやみません。

                                                                                                (了)

                                                                  『ALIA2006』の後書きより





『ALIA2007』の革命!!


ALIA4』は、以前の「ALIA」シリーズの章が独立したアン ソロジーになり、即ち、同時に出版される『ALIA italia』(監修:ヴィットーリオ・カ ターニ氏)、『ALIA giappone』(監修・訳:マッシモ・スマ レ氏)、『ALIA anglosfera』 (監修・訳:ダーヴィデ・マーナ氏)から構成されている世界幻想文学スーパーアンソロジーなのである。それぞれの本は150~220ページであるが、3冊 は、一人一人の監修者の前書きの他、総監修者のシルヴィア・トレヴェース氏(福総監修者はマッシモ・チーティ氏です)の共通の前書きもあり、それぞれの本に、他の2冊の項 目も載っている。さらに、挿絵が多くあり!



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